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第五回 宮本亜門さん(演出家)

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第五回 宮本亜門さん(演出家)

もっと自分をさらけ出す勇気

(残間)宮本さんの対談集『宮本亜門のバタアシ人生』を読ませていただきました。小さい頃から今にいたる自分の悩みと、そこをどう乗り越えてきたかが書かれてあるんですが、今まで宮本さんに抱いていたイメージとの落差に少々驚きました。自殺未遂、ひきこもり、対人恐怖症など、なかなか順風満帆とはいかなかったんですね。

 僕は小さい頃から、自分が普通とは違うと感じていました。子供なのに日舞が好きだったり、毛虫がきれいだと思ったり、いろんな面で。ちょっとしたことなんですけどね。一方で他の子が面白がっていることに、ちっとも興味が持てなかったり。

 ところが学校というのは、結果的に「普通」であることを求められる環境なんですね。「普通」を大切と思わせる雰囲気。それで僕は周りとの違いを感じながら、何とか合わせなきゃとも思っていました。でも、それがうまくできない。

 それから、学校はこうするとこうなるよ、というルートを決めてしまうところがあって、すごく僕にはつらかったですね。

おまけにその中で、競争もさせられますから。

 それでもゴールがひとつだけでなく、いろいろあれば面白いと思うんですけどね。

 とにかく僕は、周りが好きだと思っていることが、あまり好きではない子供だったんですね。でも、このままじゃ社会に適合できないんじゃないかという恐怖感がありますから、やらなきゃいけないのかな? 好きじゃなきゃいけないのかな? と思ってやるわけです。仮にそれが自分では絶対にしたくないことでも。すごいストレスでしたね。

それが高じて高校時代には不登校、引きこもりに。

 高校時代も友だちはいたんですよ。嫌われたくないから、いろいろ努力してたんです。それで家に帰ってきてため息をつく。

 あの頃は、どうやって自分という人間を消すか、ということばかり考えていました。目立つと「普通」なふりをしなくちゃいけないので、傷つくわけです。目立たないようにと、ネズミ男みたいにグレーの服ばかり着たりね。今から考えるとすごく子供っぽいんですけど(笑)。

 でも結局、自分と周囲とのギャップに耐えきれなくなって、部屋から出られなくなりました。友だちは誰も僕の悩みには気づいてなくて、みんなびっくりしていましたね。

引きこもってる側の心理というのは、どういうものなんでしょうか。

 部屋のドア越しに、両親や先生、友だちが「出ておいでよ」「学校に行こうよ」と呼びかけてくるんですね。本当は出ていきたい気持ちはあるんですけど、きっかけがつかめない。そのうちに両親は自分自身を責めはじめ、ケンカをし、父親は怒鳴り、母親は泣く、という風に、どんどん状況がシリアスになってきて、僕も追いつめられていく。ますます出られないわけです。

 もしかしたら「出てこい」なんて言わないで、部屋の外で宴会をやったりダンスをやって楽しそうにしてたら、出て行ったのかもしれませんね。『北風と太陽』の話がありますが、僕は舞台を演出したり人と接する時は、常に太陽でありたいと思っています。北風では人は心を開きませんよ。

どんどんシリアスになるというのは、引きこもりという状況に、みんな視野が狭くなっていくんでしょうね。引きこもりといっても、時には滑稽な局面だってあるんだと思います。たとえばどんなにシリアスでも、食事はとるわけですよね。

 そうそう。「出てこい」「出たくない」とやっている一方で、母親はご飯を部屋の前に置き、僕はそれを中に入れて食べて、食器をもとに戻すわけです。部屋から出ないと言っておきながら、大小はトイレに行って済ませてるんです。考えたら、何かへんですよね(笑)。

昔の植木等のギャグではないですが、シリアスな状況などお構いなしに、「これまた失礼しました!」というような、調子っぱずれな人でもいるといいのかもしれませんね。それで宮本さんの引きこもりは、どうやって終わったのでしょう。

 両親のシリアスな状況は、父が宮本家の家宝の日本刀を振り回すところまで行きました。それである時、母親がついに言ったんですね。「もう学校には行かなくていいよ」と。

 この時の安堵感というのは、たいへんなものでしたね。まだ「登校拒否」という言葉がない頃でしたから、「そういう選択もあるのか!」という感じで。ただし母親には交換条件があって、それが精神科に行くことでした。学校に行かなくて済むのは良かったのですが、ついに僕も病人か、ダメな人間か、という感じでしたね。

 ところが精神科に行ったら、お医者さんがとてもいい方だったんです。僕のとりとめのない話をよく聞いてくれて、面白がってくれました。「何でそんな風に思うの?」なんて問いただしたりしないんです。僕のありのままを受け止めてくれる。僕は僕のままでいいんだ!と思えるようになって、不思議なくらい楽になりましたね。もう楽しくて、最初の頃は毎日のように精神科に行ってました。

 それから、自分が思っているほど、周りは自分のことを気にしてない。みんな自分のことで精一杯なんだ、という当り前のことにも気づいたわけです。

もしかしたら宮本さんにとって引きこもりの期間というのは、自分と向きあう絶対的な孤独時間として、必要なものだったのかもしれませんね。

 そうですね。こういう問題の解決には、"時間"というのは大きいと思います。本当の僕はこうなんだと、自分をさらけ出して七転八倒する。そんな時間を通り過ぎることが必要なんでしょうね。

 引きこもってた間は、部屋を暗くしてひたすらレコードを聴いていました。20枚ぐらいしか持ってませんでしたが、それを繰り返し繰り返し聞いてましたね。感受性の鋭い時期ですから、フルトベングラーとか聞くと感動しすぎて吐きそうになってね。でも、あの暗い部屋で繰り返し音楽を聞いた経験は、僕の演出家としての原点になっている気がします。

社会に出た宮本さんは演出家として大成功。ところが突然一年間の休業宣言をして、99年には沖縄に移住してしまいます。思っていることが自由にやれる境遇になったはずなのに、いったい何があったんでしょう。

 成功しても、それでも不安だったんですね。これからも演劇界や世間にうまく乗れるんだろうかって、つい考えてしまう自分がいました。その怖さは今でもあります。ちょっと売れてもいい気分なんかになれない。

 その一方で、世間に乗ることがいいとも思っていないんです。これって、高校時代の悩みとちっとも変わっていないですよね。本当の自分と、世間を気にする自分とのギャップ。それでどうにもならなくなって、一年間休業することにしました。そこで出会ったのが"沖縄"なんです。

 沖縄にいると楽なんですよ。沖縄にいると対人間として、みんな同じにさせられます。誰も僕に仕事の話なんかしませんしね。顔色が悪いから「ヤクルトでも飲んだら」とか言われるぐらいで(笑)。

 何か遅れていることがあって、僕がつい「まだか!」なんて言うと、「そのうち来るさぁー」「大丈夫さぁー」・・・。その度に己の小ささに恥じ入ってしまいますよね。それから「花がきれいですね」と僕が言ったら、「花ばかり見てちゃだめよ。花がきれいなのは、根っこがいいから。そこを見ないと」と言われたりする。本当に勉強になります(笑)。

 今は東京と沖縄を行き来する生活ですが、沖縄に行くと、東京で凝り固まった神経がほぐされていくんですね。

沖縄じゃなくても、自分をフラットにしてくれる、プレッシャーから解放してくれるコミュニティや人間関係が、きっと必要なんでしょうね。
さて、自殺やうつ病は、 40代、30代、そしてさらに若い世代にも広がっています。ご自分の経験を踏まえて、悩みを抱えている若い世代に何かアドバイスはありますか?

 先ほども言いましたが、悩んで七転八倒するのは決して悪いことじゃないと思います。大事なのは後で落ち込んだとしても、もっと普段から「本当の自分」を出していくこと。ところが悩みがちな人って真面目なものだから、すぐにブレーキをかけて、自分を出すことを避けてしまう。

 海外で舞台をやったりすると痛感するんですが、この国の国民は恐ろしく真面目だと思います。いろんな仕事が高いクォリティできちんと進んでいくんです。

 例えば日本の商業演劇は、3年先まで公演が決まっていきます。そして3年後に実際に公演が行われます。こんな国は他にないですよ。ロンドンだと公演が決まるのは半年前が多いですね。しかも日本は代役をほとんど用意しません。何があっても舞台に立ち続けるという感じなんです。海外はもしもの時のために、必ず代役を立てますから。

 真面目なのはいいことなんですが、行き過ぎてブレーキをかけられなくなっている人が多いんじゃないでしょうか。

 それから若い頃って、とかく将来を悲観しがちなんですが、人生って、想像した通りにはならないんですよね。今、僕がこんなに楽しく仕事ができるようになるなんて、昔は思ってもみなかったです。

(2009年12月 撮影:岡戸雅樹)

宮本亜門(演出家)

宮本亜門(演出家)
1958年東京生まれ。
1987年にオリジナルミュージカル「アイ・ガット・マーマン」で演出家としてデビュー。
翌年には、同作品で「文化庁芸術祭賞」を受賞。ミュージカルのみならず、ストレートプレイ、オペラ等、現在最も注目される演出家として、国内外に活動の場を広げている。
今年6月、ロンドンのウエストエンドでロングラン公演「ファンタスティックス」を予定。著書に「宮本亜門のバタアシ人生」がある。

残間里江子 Rieko ZAMMA プロデューサー

残間里江子(プロデューサー)
1950年仙台市生まれ。アナウンサー、雑誌編集長などを経て、80年に企画制作会社を設立。
プロデューサーとして出版、映像、文化イベントなどを多数手がける。