第十回 寿美花代さん(女優)
芸能界きってのおしどり夫婦で知られた高島忠夫さん夫妻。
その忠夫さんがうつ病を発症したのは1998年のこと。
突然の夫の心の病に驚きつつも、妻である寿美花代さんは献身的に介護に取り組み続けました。
そして約10年の歳月を要して、現在、忠夫さんはほぼ完治といえるほど回復しました。
寿美さんはうつ病になってしまった夫を、どのように支えたのでしょうか。
高島忠夫さんはうつ病を発症する前、酒量がかなり増えていたとお聞きしました。
何か悩みを抱えていたんでしょうか。
もともとお酒は好きだったんですが、発症する前はかなりの量を飲むようになっていました。今にして思えば、俳優として、芸能人としてストレスが高まっていたのだと思います。
この世界は競争も激しいです。新しい人、若い人がどんどん出てきて、常に追い越されるんじゃないかという心配がつきまといます。それは私も女優ですし、宝塚時代には主役を争っていましたから、よくわかるんです。
そんなプレッシャーから逃れるため、早く寝てしまおうとお酒に手が伸びていったようです。
普通のサラリーマンでも似たような状況はあると思うんですが、人気商売というのは、自分の立ち位置の微妙な変化というのが、とてもはっきりとしてしまいます。また、デリケートな方ほどストレスを感じるんでしょうね。アルコール依存に近い状態を経て、うつ病を発症されたんでしょうか。
ええ。あの明るい性格だった夫が、ほとんど寝室から出ず、無表情な顔で一点を見つめるようになりました。大学病院からは入院を勧められましたが、夫をひとりで入院させることはとても出来ませんでした。
入院せずに自宅で療養するということは、家族に24時間の負担を強いることになります。なかなか難しい局面も多かったと思うんですが、ご自身の介護を振り返って、どう自分をコントロールしていたんでしょう。
介護をしていて感じたのは、切り替えが大事だということ。私が仕事で出かける時には介護を人に頼み、その間は仕事に集中する。そして家に帰ればどんなに泣きたくても、顔を洗って涙を拭き、きれいに化粧をして笑顔で夫の世話をする。確かに夫は心配なんですが、一日中介護のことばかり考えていたわけではありません。
それから気分転換に、よく「想像の温泉」に入っていましたね。洗面所のシンクにお湯を張って手を浸し、2分間ぐらい目をつぶって、今、自分が箱根の温泉にいると想像するんです。そんなちょっとした事でも、ずいぶんと気が楽になるものです。それで「次いこう!」と。手を温めるのは今もやっています。やっぱり私が生き生きと輝いていることが、一番、夫を勇気づけると思うんです。
優先順位をつけて物事を進めるというのも重要だと思います。つらいでしょうけど、そういう気持ちに流されず、今一番やらなければいけないこと、たとえば食欲のない夫に少しでも食べてもらうため美味しい料理を作るとか、順にかたづけていくとか。
介護にあたっている人が、うつ病を発症してしまうこともあります。
確かに、私自身もうつになりかかった時期がありましたね。
今でも覚えているんですが、そんな風に思い悩んでいる頃、デパートの地下の食料品売り場で、ふと青いレタスやほうれん草を目にした時、「アッ」と思ったんですよ。その青々として生命感溢れる姿が、私を歓迎してくれていると思ったんですね。ワーッとこちらに野菜が飛び込んできました。どういうわけか、とてもホッとさせられたのを覚えています。不思議なものですね。それまで野菜を見て、そんなことを感じたことはなかったのに。
それが野菜じゃなくて、空や雲の人もいるんでしょうね。それはきっと、内に向かいがちな気持ちが外に向けられて、バランスがとれたんだと思います。
寿美さんは講演などで、自身の介護体験を話す機会もあると思います。同じようにうつ病の家族を抱えている方から、アドバイスを求められることも多いんじゃないですか。
そのお気持ちはよくわかります。私も芸能人の方でうつ病になった方の奥様に、話を聞きたいと思いましたから。
でも同じうつ病といっても、人によってさまざまなんですね。私もいろんなことをやりました。嫌がる夫を無理矢理散歩に連れ出したり、マッサージもしましたし、日記を書かせたり、以前は好きだった絵を描かせようと色鉛筆を並べておいたり。効果があったものもあれば、そうでもなかったものもありますが、それが他の人にもあてはまるとは限らないと思います。
夫は日記も絵もまるでやってくれませんでしたが、日記に関しては私が書く分には効果がありましたね。介護していると気持ちが内向きになりがちですが、気持ちを客観的に整理することができたと思います。「書く」という行為には救われました。厚いノート2冊分、恨み節を書き連ねましたよ(笑)。
高島さんに一番効果があったのは音楽のようですね。
ええ。昔から音楽好きでしたが、特に1960年代のジャズやポップス。カウント・ベイシーやナット・キング・コール、フランク・シナトラのCDをかけたら、パッと目の色が変わったんですよ。
病状が少し回復してからは、得意なピアノを人前で演奏して、それがまた回復に役立ったそうですね。うつ病に苦しんでいる方は、高島さんにとっての”音楽”にあたるものが見つかればいいんでしょうけど。
今は高島さんは仕事にも復帰していますが、ご夫婦で闘病中のことを話し合ったりしますか。
それが本人は、当時の記憶はスッポリと抜け落ちているんです。治るにしたがって「夢から醒める」ように、現実の世界に戻ってきたそうです。今となっては、私自身も記憶があいまいなところもあります。つらかったからでしょうかね。
もしかしたら、私は何年も介護者という役の芝居をやっていたのかもしれません。私自身は、芝居をやりきったと思っていますけど。
寿美さんは、夫のうつ病という大変な時期を乗り越えることが出来たわけですが、何が一番、力になったと思いますか。
私は今、私ほど幸せな人間はいないと思っています。でも、今回のことを乗り越えるには、私の今までのつらかった経験が力になった気がしています。例えば戦争体験。それから厳しい競争を課せられた宝塚時代や、他にも様々なことがありました。そういった事が私の心の引き出しを増やして、この難しい問題に何とか対処できたんだと思います。こっちがダメならそっち。そっちがダメならあっちと。引き出しがひとつだったら、厳しかったでしょうね。
それから私は介護をしている際、つらくとも心のどこかでは「なんとかなる」と思うことができました。これは楽天的な性格に産み育ててくれた親に感謝するのみです。
後はやっぱり夫との信頼関係ですね。浮気もせずに病気になるまで、本当に私を大事にしてくれていましたから。それを思えば、介護は苦ではなかったです。
(笑)そこが、やはり一番大事なんでしょうね。今日はありがとうございました。
こちらこそ。何か少しでもお役に立てれば嬉しいです。
(2011年2月 撮影:岡戸雅樹)
寿美花代(女優)
1932年兵庫県生まれ。
1948年宝塚歌劇団に入団し、男役のトップスターとして活躍。
代表作は1960年に芸術祭賞を受賞した「華麗なる千拍子」。
1963年「タカラジェンヌに栄光あれ」をさよなら公演に退団。
同年、俳優の高島忠夫と結婚。夫婦で司会を務めた料理番組「ごちそうさま」(NTV)は人気番組で26年も続いた。
近年は、MBS「ちちんぷいぷい」セミレギュラーなどバラエティ番組や、トークショーなど幅広く活躍中。
残間里江子(プロデューサー)
1950年仙台市生まれ。アナウンサー、雑誌編集長などを経て、80年に企画制作会社を設立。
プロデューサーとして出版、映像、文化イベントなどを多数手がける。