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第七回 本橋豊(秋田大学医学部長)

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第七回 本橋豊さん(秋田大学医学部長)

正しい知識を得ることで、人の行動は変わります

本橋さんは官・民・学協働による「秋田大学自殺予防研究プロジェクト」の中心メンバーとしてご尽力され、大きな成果を上げてらっしゃいますが、専門は公衆衛生学ですね。公衆衛生学というと、素人は伝染病予防や衛生知識の啓蒙活動を思い浮かべてしまいます。実際のところはどうなんでしょう。

 昔はそうでしたね。コレラの予防対策ですとか。しかし1950年くらいからは生活習慣病対策が公衆衛生学の中心になっています。秋田は脳卒中の多発県ですから、早くから保健師さんを中心に生活指導など、地域の健康づくりに取り組んでいました。しかし、どこの地方でもそうでしたが、心の健康は取り残されていたんですね。

公衆衛生学というのは、地域の生活に関わっている部分が多いと思うんですが、その視点から自殺問題に取り組んだのは画期的だったと思いますし、秋田の成功の原因ではないでしょうか。これが、精神医学の視点からのアプローチであったとしたら、かなり違ったものになっていたんじゃないですか。

 精神医学からの取り組みも重要です。実際、私たちのプロジェクトでも最初はうつ病対策が中心でした。うつ病に対する正しい知識を広めることは大切ですし、病気と捉えることで得られるメリットもあります。病気なんですから、正しい治療を受ければいいのだと。

 しかし、うつ病の原因になった"悩み"は治療では解決しません。経済的な問題、健康不安、人間関係や家族関係での問題が、その背後にはあるわけです。単なる病気治療ではなく、うつ病や自殺を地域の問題として、より総合的に捉えることが必要になってきます。

日本の自殺率(人口10万人当たりの自殺者数)は東北で高く、特に秋田はここのところ全国一位です。その原因はどこにあるんでしょうか。つい県民性と結びつけたくなるところですが。

 県民性というよりも、社会的な構造変化が秋田に起こったからだと思います。昭和20年代や30年代は、東北は決して他に比べて自殺率は高くありませんでした。

 よく言われることですが、自殺には"孤立"が大きく関わっています。私が見る限りでは、過疎化が進み若者人口が減少する中で、秋田の高齢者はやや孤立した方が多い印象があります。

 かつては人間関係での問題にしろ、調整してくれる誰かがいたんでしょうが、秋田でも核家族化が進んでおり、孤立の中で悩みを深めてしまうようです。

「自殺率全国一位」というと、あまり大きな声では言いたくない話題ですが、秋田県はあえて正面から取り組み、プロジェクトをスタートさせましたね。当初はどんな様子だったんでしょう。

 当初、自殺防止を地方自治体などの行政が行ったり、個人の心の問題に立ち入ることには、疑問の声や偏見がありました。そして「自殺」という言葉を表立って言うことで、かえって自殺が増えるのではないかと、専門家からも否定的な意見が出ました。2000年に立ち上げて、方向性が定まるまでは約1年かかりましたね。

 プロジェクトが前進したのは、やはり当時の寺田秋田県知事が県として自殺防止に取り組むことを明言したことが大きかったと思います。

秋田のプロジェクトで素晴しいと思ったのは、自殺問題に意識の高い方を「ふれあい相談員」「メンタルヘルスサポーター」として研修の上で認定し、高齢者の家庭訪問を行っている点です。近所に気軽に相談できる人がいて、見守りの役割を担っていますね。非常に草の根的です。

 自殺問題に取り組む場合、生活や情緒的な側面が大きいですから、行政だけでやろうとすると、必ず空回りしてしまいますね。民を巻き込んでいくことが大切です。その地域に影響力のあるキーパーソンがいれば、なおよいですね。

「ふれあい相談員」「メンタルヘルスサポーター」の養成というのは、身近な相談者を増やすというだけでなく、自殺やうつ病への啓発・啓蒙という点でも非常に有効だと思います。本橋さんは「メンタルヘルス・リテラシー」という言葉もお使いになっていて、この問題への正しい理解、知識を一般の方が身につけることが重要だとおっしゃっていますね。

 例えば、うつ病の人に対して私たちは気を使って、つい声をかけちゃいけないと思ったりしてしまいがちです。善意からなんですが、それが時としてかえって状況を悪くしてしまったりする。あるいは、知識がないゆえにうつ病に気づかなかったり。

 自死遺族への対応もそうですね。周りが気を使い過ぎることで、追いつめてしまう側面があります。タブーや偏見をなくし、正しい知識を広めることは、とても重要です。

 やはり正しい知識こそが、人の行動を変えるのだと思います。

 それから私たちもやってみて気づいたことなんですが、啓発活動をやると地域の人の声が聞こえてくるんですね。それまでは言わなかったけど、自殺やうつ病に対して人々が思っていたこと、感じていたことが、我々の耳に入ってくるようになるんです。そうすると対話が始まり、信頼が生れていきますよね。

本橋さんたちの努力のかいもあって、自殺予防プロジェクトの対象となった秋田県のモデル町では、2001年からの4年間で47%も自殺者が減りました。この結果をどう分析していますか。

 単純に自殺をしたいと思う人が減ったのではないと思います。今もうつ的な人はたくさんいますし、その原因になった悩みは解決されていません。でも、プロジェクトを行ったことで、最後の一線で踏みとどまる人が増えたんだと思います。だから努力を怠れば、すぐに自殺者は増えてしまうでしょう。

 先ほども言いましたが、自殺は孤立と大きく関わっています。ですから"支え"があれば踏みとどまれるんです。その支える手を増やすのが自殺対策の基本なんだと思います。

(2010年6月 撮影:岡戸雅樹)

本橋豊(秋田大学医学部長)

本橋豊(秋田大学医学部長)
1954年東京生まれ。1996年より秋田大学医学部教授を経て現職。
専門は公衆衛生学、地域における自殺予防。
現在、内閣府の自殺対策推進会議の委員も務める。
2000年から、秋田大学自殺予防研究プロジェクトの中心メンバーとして、
自殺予防モデル事業に取り組み、心の健康に関する基礎調査、うつ病や
自殺に関する正しい情報の提供と啓発活動、住民と連携して地域で気軽に
相談ができる相談員のボランティア育成を行った。
また、自殺予防リーフレットの全戸配布、新聞に自殺予防の意見広告を
掲載するなど、多くの自殺予防対策を実施した。
著書に『自殺が減ったまち──秋田県の挑戦』(岩波書店、2006)、
『自殺対策ハンドブックQ&A』(編著、ぎょうせい、2007)などがある。

残間里江子 Rieko ZAMMA プロデューサー

残間里江子(プロデューサー)
1950年仙台市生まれ。アナウンサー、雑誌編集長などを経て、80年に企画制作会社を設立。
プロデューサーとして出版、映像、文化イベントなどを多数手がける。